はじめに
世の中には、私たちにあまり知られていない“砂漠に潜るモグラのような哺乳類”が存在します。オーストラリアモグラネズミ(英名: marsupial mole)――その習性や姿は、一見「普通のモグラ」に似ていますが、実はまったく異なる系統の生き物であり、その体には驚くべき適応の痕跡が刻まれています。
2025年1月、国際研究チームがこのモグラネズミの「全ゲノム解析」に成功し、その進化と適応の歴史が初めて詳細に明らかになりました。
本記事では、この新しい研究結果をもとに、砂漠の地下生活に適応したモグラネズミの“体の設計”の数々をご紹介します。あまり知られていない生物だからこそ、「なぜ」「どうして」が浮かび上がる、そんな内容です。
1. モグラに似て非なる――まずは基本プロフィール

オーストラリアモグラネズミは、オーストラリア北西部から中央部の砂漠地域に生息する非常に希少な有袋類です。表面は滑らかな黄金色の毛に覆われ、小さな“皮膚に覆われた目”を持ち、強力な前肢で砂の中を“泳ぐように”移動します。
彼らは伝統的なトンネルを掘って巣を作るのではなく、ゆるく動く砂の中を体ごと押し分けながら移動するユニークな「砂中生活(サンド・スイミング)」様式をとっています。地上の哺乳類と似たようでいて、その身体設計はむしろ水生動物や地下動物に近い――そんな不思議な存在です。
このあまりにも特殊なライフスタイルのため、野生での観察例はきわめて少なく、生物学的にも長らく謎に包まれてきました。
2. 全ゲノム解読――砂漠モグラの“設計図”がついに明らかに

2025年1月、研究チームは保存標本から採取された細胞を使い、オーストラリアモグラネズミのゲノムを初めて完全に解読しました。これにより、彼らが長年かけて蓄えてきた“地下生活への遺伝的適応”の全貌が浮かび上がってきました。
遺伝子レベルの解析によって、砂中での移動、呼吸、感覚器、繁殖など、多岐にわたる身体機能の変化や喪失、さらに環境に応じた最適化の痕跡が確認されています。以下、その主要な発見をご紹介します。
3. 酸素が乏しい砂の中に適応 ― 余分なヘモグロビン遺伝子

まず特筆すべきは、血液中で酸素を運ぶたんぱく質、ヘモグロビン に関する変化です。モグラネズミには、通常より多い、つまり“追加された”ヘモグロビン遺伝子が見つかりました。
砂の中は地上に比べて空気の循環が悪く、酸素も不足しがちです。そのような過酷な環境で生きるため、限られた酸素資源を効率よく体中に届ける能力――つまりヘモグロビンの機能強化は、生存のために極めて重要だったと考えられます。
このような血液運搬能力の適応は、単なる“形の変化”ではなく、生理機能そのものを再設計するような、深い進化的変化を意味します。
4. 目の退化――光を遮断した地下生活へのシフト

さらにモグラネズミのゲノムは、視覚系の大幅な機能喪失も示していました。具体的には、まず「水晶体(レンズ)」を作るための遺伝子が失われ、その後「錐体細胞(色覚や明るい光の感知用)」「杆体細胞(暗所視用)」という網膜の光受容機能を担う遺伝子が段階的に劣化、最終的にはほぼ完全に機能しなくなっていたのです。
このような段階的な退化パターンは、彼らが「いつしか地下生活に完全に適応し、視覚をほとんど必要としなくなった」という進化の歴史を物語っています。過去には地上で活動していた可能性もあり、そこから徐々に地下専門となった過程がこの遺伝子変化に現れているわけです。
つまり、モグラネズミにとって「目」はむしろ邪魔になる器官となり、進化がそれをそぎ落としていった――それがゲノムの記録から読み取れるのです。
5. 内部に残る精巣 ― “スコルタム無し”の繁殖戦略

驚くべきことに、オスのモグラネズミは精巣が体内にあり、外部にぶら下がるスコルタム(陰嚢)を持っていません。これはオーストラリアの有袋類の中でも唯一無二の特徴です。しかも、その理由が遺伝子レベルで説明されていました。
通常、哺乳類では精子生成に適した温度を維持するため、精巣を体外に出す必要があります。しかしモグラネズミでは、地下生活や砂中移動という生活様式の中で、「スコルタムがあっては邪魔」という圧力に晒され、精巣下降を促す遺伝子(RXFP2)が壊れていたのです。
このように、生殖機構までもが生活環境にあわせて“再設計”された例は非常に稀であり、まさに進化の柔軟性を示す象徴的な事例だと言えます。
6. 人知れぬ減少 ― 遺伝的多様性の縮小とその意味

今回のゲノム調査から、モグラネズミの「有効個体数(遺伝的多様性を保つのに必要な個体数)が、約7万年前から長期にわたって減少を続けてきた」という事実も明らかになりました。
興味深いのは、この減少は人間の到来よりもかなり前に始まっていたことであり、主因は「気候変動や環境の乾燥化」「砂漠化」「海面低下などの地質・気候的要因」であった可能性が高いと指摘されています。
遺伝的多様性は、未来の環境変化に対応する能力――すなわち進化の“予備力”に直結します。モグラネズミがこれからも砂の中で生き抜くためには、今後の保全とさらなる研究が不可欠です。
7. なぜこの研究が重要か ― 進化、生態、保全、生物学の多面的示唆

このモグラネズミの全ゲノム解析が示すものは、単に「砂漠モグラがどう変わったか」という物語にとどまりません。生物学・進化学・生理学・保全生物学という異なる分野にまたがる多くの示唆を含んでいます。
- 地下生活や砂漠環境といった過酷な生態条件に対して、生理・形態・遺伝子のすべてを「再設計」する能力。
- 長年の気候変動で遺伝的多様性が減る中、それでも生き延びる生物の強靭さと、しかし同時に将来のリスク。
- 目や感覚、呼吸、繁殖――私たちが「当たり前」と思う機能が、“必要がなければ捨てられる”進化の柔軟性。
- また、彼らのようなマイナーな生物にこそ、進化の奥深さや多様性が潜んでいるという、生物学の広がり。
そして、このような研究は「絶滅危惧種の保全」「生物多様性の理解」「生態系の脆弱性把握」にも直結します。たとえ人目につかない生物であっても、その内部には、地球上の生命の可能性を広げる鍵が隠されているのです。
まとめ
オーストラリアモグラネズミ――一見地味で、謎めいた砂漠の生き物。しかし、2025年の全ゲノム解析によって、その体の設計と進化の道筋が浮かび上がりました。砂の中を泳ぐための血液の工夫、視覚の喪失、生殖器の再構築――それらはすべて「砂漠の地下」という過酷な環境に対する、生命の柔軟で巧みな応答です。
こうした研究は、私たちが知っている“普通の動物像”を問い直させてくれます。そして、生物学や進化論、さらには自然保護の観点からも、非常に示唆に富んでいます。
生き物の体の多様性――それは、私たちの想像以上に広く、深い。そんな世界を垣間見せてくれたのが、今回のモグラネズミ研究なのです。


